出雲の國 神話
黄泉国訪問
国生みを終えた
伊邪那岐神 と
伊邪那美神 は、次に神生みを開始して多くの神を誕生させました。最後に火の
神迦具土神 を生んだとき、伊邪那美神は火傷をして亡くなり、
比婆 山に葬られました。
妻を忘れられない伊邪那岐神は亡き妻を取り戻すため、死者の国である
黄泉の国 ヘ向かった。入口で帰ってくれと語りかけると、伊邪那美神は「黄泉の国の神と相談するので、その問、私の姿を見ないでください」と答えた。しかし、いくら待っても現れないので、灯りをかざして内をのぞくと、伊邪那美神の変わり果てた
醜 い姿を見た伊邪那岐神は、驚いて黄泉固から逃げ出しました。伊邪那美神は「わたしに恥をかかせた」と恨み、黄泉国の
醜女 や雷神たちに追跡させました。伊邪那岐神は髪飾りの櫛、桃を投げつけ、
十拳剣 を振るいながら、現世と黄泉国の境にある
黄泉比良坂 までたどりつきました。最後に伊邪那美神が追ってきました。
伊邪那岐神は黄泉国の出入口を閉じるため、
千引 きの岩を黄泉比良坂に据えました。岩の向こうで伊邪那美神は「こんなことをするなら、あなたの国の人々を一日に千人殺す」といい、伊邪那岐神は「それなら私は一日に千五百人の子を生もう」と答えました。こうして二神は永遠の別れを告げました。
その後、伊邪那岐神は宮崎市阿波岐原の「みそぎ池」で体を清めたと言われています。詳しくは宮崎・松江神話交流パンフレットをご覧ください。
八岐大蛇退治
天照大御神 が定める
高天原 を追放された
須佐之男命 は、出雲国の
肥 の
河 (斐伊川) 上流の
鳥髪 に降り立ちました。そこで須佐之男命は泣いている娘と老夫婦に出会いました。名を尋ねると、老夫は
大山津見神 の子の
足名椎 、妻は
手名椎 、娘は
櫛名田比売 だと答えました。さらに泣いている理由を尋ねると『八岐大蛇が毎年、娘を一人ずつ食べに来ました。八人のうち一人をまもなく食べにやってきます。」という。さらに聞けば、八岐大蛇は八つの頭と尾を持ち、谷の山の尾根を八つも越える巨大な蛇。その目は赤く燃え、腹はいつも血でただれている怪物だという。
須佐之男命は櫛名田比売を
娶 ることを条件に、大蛇退治を決めました。まず比売を櫛に変えて頭に挿すと足名椎夫妻に、強い酒を
醸 し、垣根を作り、八つの門を設け、そこに酒を入れた酒船を置くよう命じました。準備を整えて待ち受けていると、ついに大蛇がやってきました。大蛇は八つの頭を八つの酒船に突っ込んで呑み、酔いつぶれて眠ってしまいました。それを待っていた須佐之男命は、剣で大蛇を斬り刻むと、肥の川は
血飛沫 で赤く染まりました。
須佐之男命が大蛇を斬り刻んでいたところ、不意に剣の刃が欠けました。見ると大蛇の尾のあたりから太刀が現れました。須佐之男命はこれを天照大御神に献上しました。この太刀が後に三種の神器の一つとなる
草薙 の太刀です。
八岐大蛇退治を成し遂げた須佐之男命は櫛名田比売と結婚し、宮を
須賀 の地に定め、雲が盛んに立ち上る様子を見て、「八雲立つ 出雲八重垣
妻寵 に 八重垣つくる その八重垣を』と歌を詠みました。
国譲り
大国主神 が治める
葦原中国 には栄えていました。そんな地上世界を
高天原 から見ていた
天照大御神 は、「葦原中国はわが子の
天之忍穂耳命 が治めるべき国だ』と宣言しました。そして、天之忍穂耳命を地上に派遣しようとしましたが、地上の神々の騒々しい様子を見て
諦 めました。
天照大御神は
八百万 の神々と相談して、
天之菩卑能命 を、次に
天若日子命 を派遣しましたが、大国主神に次々と
懐柔 されてしまいました。不審に思った天照大御神は
雉 の
鳴女 を遣わしましたが、天若日子命は鳴女を射殺しました。その矢は鴫女を貫いて高天原に届き、高天原からの返し矢を受けて天若日子命は絶命しました。
次に遣わされたのは
建御雷之男神 と
天鳥船神 。二神が降り立ったのは出雲の
稲佐 の浜です。建御雷之男神は
十拳剣 の
柄 を波頭に突き立て、その切っ先にあぐらをかいて座し、大国主神に葦原中国を譲るよう要求しました。大国主神は自分の一存では答えられないとして、息子と
事代主神 に判断を委ねました。
事代主神は今、
美保 の
岬 (美保関) で釣りをしているというので、すぐに天鳥船神が美保の岬に向かい、事代主神を連れ帰り、国譲りを迫りました。これに対して事代主神は国譲りに同意し、乗ってきた船を踏み傾け、
逆手 を打ち
青柴 をめぐらした神座の中へ姿を消しました。
もう一人の息子
建御名方神 は納得せず、建御雷之男神に力比べを
挑 みました。建御雷之男神に投げ飛ばされた建御名方神は、信濃国の諏訪湖まで逃げ、この地からもう離れないと命乞いをしました。
諏訪から出雲に戻った建御雷之男神は、大国主神に最終判断を迫りました。大国主神に園譲りの条件として、高天原の大神の子孫の住まいと同じように、地中深く太い柱を立て、高天原に届くほどの高い宮を建てることを要求しました。
その後、大国主神は服従の
証 として、建御雷之男神を迎えるための館を、出雲国の
多芸志 に建てました。さらに神に供えるための食事を準備すると、改めて誓いの言葉を唱えました。建御雷之男神は高天原に帰り、葦原中国を征服したことを天照大御神らに報告しました。こうして、大国主神の治世は終わりを迎えました。
国引き
八束水臣津野命 が、八雲立つ出雲国は幅の狭い布のように細長く、未だ整わない国であると言って、作り縫って大きくしようと宣言された。
まず「
志羅紀 の
三埼 」(朝鮮半島の
新羅 国) に国の余りがないかと見たところ、余りが見つかったので「国よ来い、国よ来い」と引いて来て縫い合わせた地域が「
去豆 の
折絶 」から「
支豆支 の
御埼 」にかけての土地です。綱をつなぎ止めた
杭 は
佐比売 山 (
三瓶山 )、引いた綱は
薗 の長浜です。
次に「
北門 の
佐伎 国」(隠岐の島前) に余りがないかと見て、余りを切り取って、「国よ来い、園よ来い」と引いてきたのが『
多久 の
折絶 」から『
狭田 国」にかけての地域です。
さらに「
北門 の
良波 国」(隠岐の島後) からも国引きを行い、引いてきたのが「
宇波 の
折絶 」から「
闇見 の国」にかけての地域です。
そして最後に、「
高志 の
都都 の
三埼 」(北陸の能登半島) からも国引きを行い、「
三穂 の
埼 」(美保関) をつくりました。このときに使った綱が
夜見嶋 (弓ヶ浜)、つなぎ止めた杭は
伯耆 国の
火神岳 (大山) です。
八束水臣津野命は国引きを終えて、
意宇 の
杜 に杖を
衝 き立てて、「
意恵 」とおっしゃった。
加賀の潜戸
佐太大神 がお産まれになった処です。大神がお産まれになろうとしていた時、弓矢がなくなった。その時、御母である
枳佐加比売命 は「わたしの生んだ子が
麻須羅神 の子であるなら、亡くなった弓矢よでてきなさい」と祈願なさいました。その時、
角 の弓矢が流れ出てきました。これを見た御母は「これはわたしの弓矢ではない」とおっしゃって投げ捨てられました。すると今度は黄金の弓矢が流れ出てきました。御母はそれを手にすると「なんと暗い
窟 であることか」とおっしゃって金の弓矢で窟を射通されました。すると、どうしたことだろう。暗い窟が光り輝いたのです。
窟には御母の
枳佐加比売命 の社が鎮座しています。今の人はこの窟のあたりを通るとき、必ず大声をとどろかせて行きます。もし
密 かに行こうとすると、神が現れて突風が起こり、行く船は必ず転覆します。
玉造温泉
玉湯町周辺は、出雲
国造 が新任に際して朝廷に参上する時、
潔斎 に用いる清浄な玉を作る地です。ここの川のほとりに温泉が湧いています。温泉のある場所は、海でもあり陸でもある、その境目です。それで男も女も老人も子供も、あるいは道路を行き交い、あるいは海中を浜辺に沿っていき、毎日集まり市がたったようなにぎわいで、入り乱れて
宴 を楽しんでいます。
一度温泉を
浴 びれば、たちまち姿も
麗 しくなり、再び浴びればどんな病気もすべて治ります。昔から今にいたるまで、効き目がないことはありません。だから土地の人は神の湯と言っています。
執筆 :NPO 法人 松江ツーリズム研究会 副理事長 安部 登