松江めぐり

近世

1600(慶長 5) 年 11 月、関ヶ原の戦いに戦功のあった堀尾忠氏は、出雲・隠岐両国 24 万石の太守として、父吉晴と共に、遠江 とおとうみ 国 (静岡県) 浜松から広瀬の 月山富田 がっさんとだ 城に入りました。しかし、月山富田城は中世の山城で多くの欠陥を持っていたため、幕府の許可を得て松江に移城することにしました。
1604(慶長 9) 年、忠氏が 28 歳で急死、嗣子 しし の忠晴は 6 歳であったため、祖父吉晴が国政を補佐し、城と城下町の建設は 1607(慶長 12) 年に着工、5 年の歳月をかけて 1611(慶長 11) 年に完成しました。

国宝松江城は、亀田 かめだ 山 (28.4m) の低い丘陵上に構築された平山城です。天守は複合式で 4 重 5 階地下 1 階の望楼型。外壁は黒を基調とし、桃山時代初期の古式を伝える建築です。松江城天守は現存する 12 天守の一つで、古さでは 5 番目、高さでは 3 番目、平面規模では世界遺産の姫路城に次いで 2 番目の威容を誇っています。

城下の町割りは、橋北の城に近い殿町・母衣町・内中原町・田町一帯を侍町、その外側の末次本町・茶町・苧町・東本町は町人町です。橋南の白潟本町・八軒屋町・天神町・灘町などは町人町、その南は足軽が住む雑賀町です。また、橋南の東側には、合戦のとき出城となる寺町があります。
城は内堀で囲み、侍町の周囲には外堀 (北田川・京橋川・四十間堀川・田町川) がめぐり、道路は 鈎型路 かぎがたろ 丁字路 ていじろ 袋小路 ふくろこうじ 勢溜 せいだまり を設け、実戦を意識した合理的・計画的な城下町になっています。

松江開府の祖である堀尾氏は 3 代で嗣子なく断絶。1634(寛永 11) 年に京極忠高が出雲・隠岐 2 ヶ国 26 万 4 千石の領主として、若狭 わかさ 国 (福井県) 小浜から入封して、斐伊 ひい 川・ 伯太 はくた 川の治水に努めたが 3 年で病没、嗣子なく断絶しました。1638(寛永 15) 年、信濃 しなの 国 (長野県) 松本から松平直政が出雲国 18 万 6 千石 (隠岐は預かり) の藩主として松江城に入りました。

松平氏の時代は、度重なる天災や幕府への公務の出費などで藩財政が悪化していきました。6 代 宗衍 むねのぶ は中老 小田切備中尚足 おだぎりびっちゅうひさたり を補佐役として「延享 えんきょう の改革」を実施したが成功せず、隠居して藩主の座を譲りました。
7 代 治郷 はるさと は家老 朝日丹波郷保 あさひたんばさとやす を登用して「御立派 おたては の改革」といわれる藩政改革を行い、勧農抑商の政策によって藩財政は次第に好転していきました。また、治郷は 不昧 ふまい と号し、茶の湯を極め、名物茶器の収集、陶芸・木工芸などの振興を図り、茶道文化の成熟に寄与し、茶の湯と和菓子の文化を今に伝えています。
10 代 定安 さだやす は津山藩松平家より 9 代 斉貴 なりたけ の養子として迎えられ、親藩として、長州征伐や 鎮撫使 ちんぶし 事件など幕末の多難な時期の藩政に当たりました。1869(明治 2) 年版籍奉還の後、定安は松江藩知事となり、廃藩置県の 1871(明治 4) 年まで務めました。
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