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陣幕久五郎

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 文政12年(1829年)下意東の貧しい農家に生まれた久五郎は、幼少の頃より力が強く、19歳の時に尾道市の力士に弟子入りしました。

 その後江戸に出て腕を磨き39歳の時に第12代横綱の免状を手にしました。入幕から引退までの勝率は94.6%。取り口はじっくり腰を据えるタイプで、一度土俵際で踏ん張れば攻略不能で「負けずの陣幕」の異名をとりました。また、終生ただの一回も待ったなしの輝かしい記録を残しています。

 陣幕の名は、平成3年5月に引退した横綱千代の富士関が陣幕親方を名乗ったことで有名になり、現在は元横綱北の富士関が名乗っておられます。平成3年10月に2人の親方を招聘し「横綱陣幕久五郎顕彰事業」を開催しました。

 東出雲町役場横の公園には石像があります。

陣幕久五郎詳細

 相撲の世界で横綱といえば最高の地位ですが、現在島根県出身では下意東から出た12代横綱の陣幕久五郎通高ただ一人です。下意東の町並みから羽入へ続く旧街道松原の南側に13m四方の石の玉垣をめぐらし、中央に山石を台にした高さ2mの御影石の碑が建っています。これは陣幕自身が立てたものです。陣幕は今から160年近く前の文政12年(1829年)下意東の貧しい百姓の家に生まれました。幼名を槙太郎と呼ばれていましたが、人並みすぐれて体が大きく力も強かったので、年上の者と相撲をとっても決して負けなかったと伝えられています。

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 青年になっても近郷の草相撲や宮相撲で負けることを知らなかった彼は、将来力士になって身を立てようと決め、19歳のとき反対する父親を説き伏せて広島県尾道の力士初汐久五郎の弟子となり、師匠からその力量を認められ黒縅槙之助と名乗るようになりました。

 その後、大阪へ出て朝日山四郎右衛門の門に入り、さらに22歳の時、江戸へ出て9代横綱秀廼山雷五郎の弟子となって修業に励み毎場所好成績をあげて、28歳で請われて徳島県(阿波)の蜂須賀侯のお抱え力士となり、初めて陣幕久五郎の四股名で相撲をとりました。

 その翌年当時幕下十一枚目の陣幕は、幕内前頭十六枚目の数年来不敗を誇っていた強豪力士不知火光右衛門(後の11代横綱)との大一番で見事な勝利を占めてから彼の名はたちまち日本国中に広がりました。

 その後入幕して場所ごとに抜群の成績を残し、文久3年張出関脇となり生国出雲の松平侯に抱えられました。間もなく鹿児島県(薩摩)の島津候のお抱え力士となりましたがこの頃から陣幕の力量、技能、闘志は最高潮を続け番付も昇り、ついに慶応3年、39歳で第12代横綱の免状を手にしました。

 陣幕の相撲は積極的な攻めにでるというよりも、構えて待つ磐石堅実な取り口で怪我負け取りこぼしがまったくなく、当時の人々は「負けずの陣幕」と呼んでその勝負強さに舌を巻きました。入幕以後引退までの勝率は94.6%(江戸の幕内出場15場所87勝5敗17引き分け3預かり)、大横綱谷風と並ぶ優秀7場所、横綱不知火に10勝2引き分けで、古今の大力士の中で雷電、谷風、常陸山に次ぐ超強豪力士でした。

 翌年相撲界を引退して大阪へ移った陣幕は大阪相撲頭取総長を命じられて、大阪相撲界の発展に尽力しました。その間一度故郷の下意東に錦衣帰郷し自らの碑を建てたり、多くの田畑を買って鎮守社である筑陽神社へ寄進し、その作徳の金で毎年例祭に大規模な奉納相撲を催す例を始めました。当時としては多額の賞金が出たことで島根、鳥取の力士が多数集まり、意東の「陣幕相撲」といえば両県に鳴り響いた大宮相撲でした。

 明治21年、60歳の時東京へ家を移しましたが、現在もなお残っている深川の富岡八幡宮の巨大な「横綱力士碑」を建立しました。この碑に書き込まれた歴代横綱名が今日の歴代横綱の数え方として普及する元になりました。このほか各地に力士碑を建て力士の顕彰とその地位の向上に晩年の力をそそぎ続けました。明治36年(1903年)10月21日、病気のため75歳で東京で亡くなりました。墓は東京都品川区・光取寺と広島県尾道市・光明寺にあります。

 陣幕が縁で、陣幕が修行した広島県尾道市とは、平成6年5月30日に「産業文化友好交流都市」の盟約を結んでいます。

○「「陣幕」夢と浪漫物語」  
発行  平成3年10月22日  
編さん  10・28横綱陣幕久五郎顕彰事業実施委員会        
製作・企画/高倉正明        
特別資料協力/花谷幸三  
発行者  横綱陣幕久五郎顕彰事業実行委員会  
デザイン・印刷  株式会社エムシー・スクエア

○黒柳千吉(谷の音松太郎)
 黒柳千吉は本名を松太郎といい、文政11年揖屋村の金山という山間の小集落で、角田勘次郎の長男として産声をあげました。成長するにつれて体格は同年輩の子供たちより、ずばぬけて大きくなり、力の強さも並ぶものがなかったといわれています。よく父母のいいつけを守り家業を手伝いました。13歳の時には大人の一荷16貫(60kg.)のこえたけを田畑に運び大人一人役の働きをしたといいます。16歳の時には上意東の大日堂の庭にあった30貫の力石を肩にして 22段の石段を16往復したとも伝えられています。

 彼の強力ぶりについては次のような話も残されています。

 当時漁村であった揖屋村では、中海産の魚介を天秤棒でかついで、京羅木山を越え広瀬の町へ売りに行く魚売りが多く、片荷に八貫ずつかついで山を越えるのが一人前とされていましたが、17歳の時揖屋の行商に雇われた松太郎は、広瀬はおろか時には泊まり掛けで比田を越えて仁多郡の横田まで出かけました。その時の片荷が16貫、前後で33貫の荷を軽々と担ぎ、他の人より速く歩いたと言われています。また上納米四俵を下駄ばきで、金山から揖屋の町の倉庫へ運んだこともあったといいます。

 15〜16歳頃になると素人相撲の大関株になり、近隣の村では一応名の聞こえた相撲取りになりました。四股名を谷の音(角田家の門名が谷であったからそれにちなんで付けた)と名乗った松太郎は、官相撲に飛び入りしてもなかなか負けませんでした。

 官相撲というのは、出雲相撲と呼ばれた職業力士で、明治中期まで出雲地方に存続し毎年番付けを編成して各地を巡業して人気をあおっていました。 

○関脇・谷の音喜市
 明治の後半期、関脇まで進み実に37場所も幕内力士を続けた谷の音喜市は、黒柳千吉より40年余りあとの慶応3年8月揖屋村東灘町の漁師深田太三郎の次男に生まれ幼名を久市といいました。

 父の太三郎が、21貫(約78キロ)、母のコノが19貫(約71キロ)あり生まれた久市が、1貫200匁(4.5キログラム)あったと伝えられています。4歳の紐落しの祝の時、1斗の米を楽々と持ち上げたとか、13.4歳の時には、1日1升5合の飯を食べたとか故老は伝えていますが、真為のほどは定かでありません。青年期に入ると父の職業である漁師仲間に入り、毎日中海へ出て櫓を漕ぎ網を引く重労働に携わりました。船を櫓で操ることは、腰の使い方ひとつにかかり、上半身と足のバランスがとれないと海中に飛び込むことになります。そのため習慣的に腰の運動が船の動きによる身体の重心のとり方に即応するので、漁師出身の力士には腰の粘りの強い人が多く、近代の名横綱双葉山の強靱無比な腰がそのよい例です。その充実した体格と怪力のため素人相撲では近隣に敵する者がなく、四股名も郷里の先輩にあやかって、「谷の音」と名乗りました。ときおり巡業してくる宮相撲の幕内力士などとも5分の勝負をする久市の相撲ぶりを見た郷党は「往年の谷の音松太郎の再来である」と口々にほめたたえました。

 久市もまたその声にこたえて、力士となって名をあげようと決心し、明治16年17歳で大阪へ出て朝日山四郎衛門の門をたたき、専門力士としてのスタ−トをきったのです。

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